アルゼンチンの歴史|スペイン植民地から独立、経済危機まで

目次
- アルゼンチンはどこの植民地だったか|アルゼンチン植民地の宗主国はスペインです
- アルゼンチン歴史の要点|建国と成り立ちを簡単に、わかりやすく
- まず、歴史を地図で歩く
- 目次
- 植民地時代 (1536-1810)|スペインによる植民地支配の歴史
- 独立と内戦 (1810-1880): 五月革命から国家統一まで
- 移民と黄金期 (1880-1943): 南米のパリと600万人の移民
- ペロンの時代 (1943-1955): ペロンとエビータの熱狂
- 軍政の時代 (1955-1983): 最も暗い時代とマルビナス戦争
- 民主化以降 (1983-): 経済危機と不屈の魂
- 歴史をつくった人物たち
- 500年の年表
- アルゼンチンの歴史を読む
- よくある質問
- 関連記事
なぜアルゼンチンは「南米のパリ」と呼ばれ、そして「経済危機の常連」になったのか。その答えは、この国がたどった500年の歴史の中にあります。スペインの植民地支配、独立と内戦、移民がつくった黄金期、ペロンとエビータ、軍政の闇、そして民主化。この記事は、政治的な立場を挟まず、史実に基づいてアルゼンチンの成り立ちを一本の物語として解説します。
2023年に公開した記事を、2026年8月に全面的に書き直しました。
アルゼンチンはどこの植民地だったか|アルゼンチン植民地の宗主国はスペインです
スペインです。
1516年にスペインの探検家ソリスがラプラタ川に到達し、1536年に最初のブエノスアイレス建設。以後、1810年の五月革命で独立の動きが始まるまで、およそ300年にわたってスペインの支配下にありました。
ただし、この地は植民地としては辺境でした。スペインが求めた銀は、ペルーとボリビアで採れたからです。銀の出ないアルゼンチンは長く放置され、行政の中心もリマに置かれていました。ブエノスアイレスが副王領の首都になるのは1776年、独立のわずか34年前です。
この「放っておかれた」期間が、後の性格を作ります。本国の統制が緩かったぶん、現地生まれのスペイン系住民 (クリオーリョ) が自分たちで街を運営する習慣を持ちました。1806年と1807年にイギリス軍が攻めてきたとき、スペイン総督は逃げ、街を守ったのはクリオーリョの民兵でした。自分たちで守れるという自信が、そのまま独立へ向かいます。
独立の宣言は1816年7月9日。今日の独立記念日です。
隣国との違いも、ここから来ています。ブラジルはポルトガルの植民地で、言語がポルトガル語なのはそのためです。南米の言語の分かれ方は南米の言語一覧にまとめました。
アルゼンチン歴史の要点|建国と成り立ちを簡単に、わかりやすく
1816年7月9日です。
北部の街トゥクマンに各地の代表が集まり、スペインからの独立を宣言しました。この日が独立記念日で、ブエノスアイレスの大通り「7月9日通り (Avenida 9 de Julio)」の名前にもなっています。
ただし、独立の動きが始まったのはその6年前です。1810年5月25日、ブエノスアイレスの市民が総督を退けて自治政府を作りました。五月革命と呼ばれ、こちらも祝日です。5月25日と7月9日という二つの記念日があるのは、この経緯によります。
さらに言えば、1816年の宣言のあとも国はまとまっていません。ブエノスアイレスと地方が対立し、統一されるのは1880年です。建国から国家の完成まで、64年かかっています。
まず、歴史を地図で歩く
当サイトは、この記事の全時代をひとつの地図にしました。歴史の出来事84件が、実際に起きた場所に時代別の色で置かれています。点をクリックすると何が起きたか、いまその場所で何が見られるかが出ます。
大きな画面で見るには ヒストリーマップを開く からどうぞ。時代のチップとスライダーで絞り込めます。
目次
- 植民地時代 (1536-1810): 銀の国と呼ばれた辺境
- 独立と内戦 (1810-1880): 五月革命から国家統一まで
- 移民と黄金期 (1880-1943): 南米のパリと600万人の移民
- ペロンの時代 (1943-1955): ペロンとエビータの熱狂
- 軍政の時代 (1955-1983): 最も暗い時代とマルビナス戦争
- 民主化以降 (1983-): 経済危機と不屈の魂
- 歴史をつくった人物たち
- 500年の年表
- よくある質問
植民地時代 (1536-1810)|スペインによる植民地支配の歴史
1516年、スペインの探検家ソリスがラ・プラタ川 (銀の川) に到達したのがすべての始まりです。スペイン人はこの川の上流に銀の山があると信じ、ラテン語で銀を意味するアルヘントゥムからこの地をアルゼンチンと呼びました。1536年にメンドーサがブエノスアイレスを築きますが、飢えと先住民との衝突で数年で放棄され、1580年のガライによる再建設まで待つことになります。
ところが当時のスペインにとって重要だったのは銀が実際に採れるペルーやボリビアで、銀の出ないアルゼンチンは長らく辺境として放置されました。入植はアンデス側の北から進み、現存最古の都市サンティアゴ・デル・エステロ (1553年)、コルドバ大学 (1613年) など、内陸に古い街が多いのはこのためです。1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が置かれ、ブエノスアイレスはようやく南米の要衝になりました。
転機は1806年と1807年のイギリス軍侵攻です。逃げたスペイン総督に代わって街を守り抜いたのは、現地生まれのスペイン系住民クリオーリョの民兵でした。自分たちの街は自分たちで守れる。この自信が、独立への原動力になりました。
この時代の跡は今も歩けます。五月広場、カビルド、マンサナ・デ・ラス・ルセス、そしてサント・ドミンゴ聖堂には英軍から奪った軍旗と砲撃の跡が残ります。この時代を地図で見る か、コンキスタドールの記録 で征服時代を深掘りできます。征服される側から見た500年は アルゼンチンの先住民の歴史 にまとめました。
独立と内戦 (1810-1880): 五月革命から国家統一まで
1810年5月25日、ブエノスアイレス市民はカビルドに集まり、副王を退けて自治政府を樹立しました。五月革命です。スペイン軍との独立戦争を経て、1816年7月9日にトゥクマン議会で独立が宣言されました。7月9日は今も独立記念日で、ブエノスアイレスの大通り「9 de Julio」の名前の由来です。ベルグラーノが 国旗 を掲げ、サン・マルティンがアンデスを越えてチリとペルーを解放へ導いたのもこの時代です。
しかし独立後に平和は来ませんでした。ブエノスアイレス集権派と地方連邦派が内戦を繰り返し、その混乱の中で連邦派の指導者ロサスが強権で国を治めます。

1852年のカセーロスの戦いでロサスが敗れると、翌1853年に現行憲法の原型が制定されます。連邦制と移民の受け入れを国の柱に据えた憲法でした。1857年には初の鉄道が走り、教育大統領サルミエントが学校を全国に広げ、国家の骨格が整っていきます。

一方でこの時代には、ロカ将軍による「砂漠の征服」(1878-1885) という暗部もあります。パタゴニアの先住民に対する軍事作戦で、国土は広がりましたが、先住民社会に大きな犠牲を強いた歴史として今日では批判的に検証されています。詳しくは アルゼンチンの先住民の歴史 で扱っています。
この時代を地図で見る。この時代に草原で生まれた ガウチョ と 国旗の物語 も、それぞれ一本の記事にしています。
移民と黄金期 (1880-1943): 南米のパリと600万人の移民
19世紀末、冷凍船の実用化がアルゼンチンの運命を変えました。パンパで育てた牛肉と小麦をヨーロッパへ大量輸出できるようになり、20世紀初頭には一人当たりGDPが世界最上位の富裕国になります。「アルゼンチン人のように金持ちだ」という言い回しがフランスで流行したほどです。
労働力として欧州から数百万人の移民が受け入れられ、1914年には人口の約3割が外国生まれという多民族国家に変わりました。ブエノスアイレスにはパリを模した壮麗な建築が次々と建ち、コロン劇場 (1908年) や地下鉄 (1913年・南米初) が生まれます。そして港町の移民街では、郷愁を抱えた人々の間から新しい音楽、タンゴ が生まれました。

繁栄は1929年の世界恐慌で終わります。輸出頼みの経済は崩壊し、1930年に最初の軍事クーデターが起きました。以後の「汚れた10年」は選挙不正と汚職が横行し、強力な指導者を求める土壌がつくられていきます。オベリスコ (1936年)、イグアスやナウエル・ウアピの国立公園 (1934年) など、今日の観光の顔が整ったのもこの頃です。
この時代を地図で見る。600万人が渡った経緯とイタリア系・日系の物語は アルゼンチン移民史 に、現代の移住は 移住ガイド に、当時の暮らしの跡は ブエノスアイレス完全ガイド にもつながります。
ペロンの時代 (1943-1955): ペロンとエビータの熱狂
1945年10月17日、拘束された労働局長ペロンの釈放を求め、労働者が五月広場を埋めました。翌年ペロンは大統領に選ばれ、労働者のための政治を掲げます。賃上げ、年金、有給休暇。特権階級には敵視され、労働者には熱狂的に愛されました。


妻のエバ・ペロン (エビータ) は財団を通じて病院や学校を作り、女性参政権 (1947年) を実現させ、貧しい人々から聖女のように慕われました。1952年、33歳で病に倒れます。その遺体が軍政下で国外に隠され、20年後にレコレータ墓地へ戻るまでの数奇な物語は、映画やミュージカル「エビータ」の題材になりました。エビータの生涯 と ペロンとペロニズム は、それぞれ一本の記事で深掘りしています。
1955年、海軍機が五月広場を爆撃し、軍事蜂起でペロンは亡命します。18年の追放の始まりでした。
軍政の時代 (1955-1983): 最も暗い時代とマルビナス戦争
ペロン追放後も政治は安定せず、クーデターが繰り返されました。1966年の「杖の夜」では軍政が大学の自治を奪い、多くの科学者が国を去ります。1973年にペロンは帰国し3度目の大統領になりますが、翌年死去。混乱の末、1976年に軍が全権を掌握しました。
ここからの7年間はアルゼンチン史で最も暗い時代です。軍政は「国家再編成プロセス」と称して反対派を組織的に連行し、行方不明者 (デサパレシードス) は約3万人にのぼるとされます。海軍機械学校ESMAは最大の秘密収容所で、現在は記憶の場として公開され、2023年に世界遺産に登録されました。白いスカーフを巻いた母親たちが子どもの消息を求めて五月広場を回り始めたのは1977年。五月広場の母たちの行進は、命がけの抵抗でした。
1978年にはワールドカップが自国開催で初優勝。歓喜と弾圧が同居する大会として記憶されています。1982年、支持を失った軍政は南大西洋のマルビナス諸島 (フォークランド諸島) に侵攻し、英国と74日間の戦争の末に敗れました。この敗戦が軍政の終わりを決定づけます。
この時代を地図で見る。軍政の実像は 軍事政権と汚い戦争、戦争の全貌は フォークランド紛争、W杯の熱狂は アルゼンチン代表とサッカー で続きが読めます。
民主化以降 (1983-): 経済危機と不屈の魂
1983年、選挙で選ばれたアルフォンシン大統領がカビルドのバルコニーから群衆に応え、民主主義が戻りました。1985年には軍政の最高幹部を通常の法廷で裁く「軍事政権裁判」が行われます。民主政府が自国の独裁者を法で裁いた、世界史でも例の少ない出来事で、映画『アルゼンチン、1985』の題材になりました。

しかし経済の傷は深く、1989年のハイパーインフレ、2001年の預金封鎖とデフォルトと、危機が繰り返されました。2001年には鍋叩きのデモ (カセロラソ) が広がり、大統領がヘリコプターで官邸を去る事態になります。100年の繁栄と転落の全体像は 経済危機とデフォルトの歴史 に、通貨の実用情報は アルゼンチンペソのブルーレート交換方法 にまとめています。
それでもこの国は立ち上がり続けます。メネム、キルチネル夫妻、マクリ、フェルナンデス、そして2023年からのミレイと、政権は振り子のように揺れながらも、選挙による政権交代は40年以上途切れていません。2013年にはブエノスアイレス大司教が中南米初のローマ教皇フランシスコに選ばれ、2022年にはメッシ率いる代表がワールドカップで3度目の優勝を果たし、数百万人がオベリスコを埋めました。2026年の大会では決勝でスペインに敗れて準優勝に終わりましたが、帰国した代表を空港で迎えたのも、同じ人々でした。詳しくはアルゼンチン代表とサッカーにまとめています。




歴史をつくった人物たち
カルロス・ガルデルはタンゴを世界の音楽にした歌手です。アバスト市場で歌った少年は「アバストのつぐみ」と呼ばれ、1935年に航空機事故で世を去った後も、チャカリータ墓地の霊廟に花が絶えません。アルゼンチン初期タンゴ映画の完全ガイド で足跡をたどれます。
エバ・ペロン (エビータ)は貧しい私生児から大統領夫人になり、女性参政権を実現して33歳で散った、アルゼンチンで最も愛され最も憎まれた女性です。レコレータ墓地の墓には今も花が供えられます。
チェ・ゲバラはロサリオ生まれのアルゼンチン人です。ブエノスアイレスの医学生だった青年は、バイクでの南米縦断旅行 (映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』) で大陸の貧困を目にし、革命家への道を歩みました。生涯・名言・死の真相は チェ・ゲバラの完全ガイド にまとめています。
アストル・ピアソラはマル・デル・プラタ生まれ。タンゴを演奏会音楽へ引き上げ、世界のクラシックとジャズの舞台に乗せました。名盤ライブラリー で聴き方を案内しています。
500年の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1536 | メンドーサがブエノスアイレスを建設 (数年で放棄) |
| 1580 | ガライが再建設 |
| 1776 | リオ・デ・ラ・プラタ副王領の成立 |
| 1806-07 | イギリス軍の侵攻を市民が撃退 |
| 1810 | 五月革命 |
| 1816 | トゥクマンで独立宣言 |
| 1829-52 | ロサスの時代 |
| 1853 | 憲法制定 |
| 1878-85 | 砂漠の征服 |
| 1880 | ブエノスアイレス首都化。黄金期へ |
| 1912 | サエンス・ペーニャ法 (秘密投票・男子普通選挙) |
| 1930 | 最初の軍事クーデター |
| 1946 | ペロン大統領就任 |
| 1947 | 女性参政権 |
| 1952 | エビータ死去 |
| 1955 | 五月広場爆撃。ペロン追放 |
| 1976-83 | 軍政「プロセソ」。行方不明者約3万人 |
| 1978 | W杯自国開催で初優勝 |
| 1982 | マルビナス戦争 |
| 1983 | 民主化 (アルフォンシン就任) |
| 2001 | 経済危機・デフォルト |
| 2022 | W杯3度目の優勝 |
アルゼンチンの歴史を読む
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よくある質問
アルゼンチンはどこの植民地でしたか
スペインです。1516年にスペインの探検家がラプラタ川に到達し、1810年の五月革命まで、およそ300年にわたって支配下にありました。独立の宣言は1816年7月9日です。
なぜアルゼンチンはスペイン語なのですか
スペインの植民地だったためです。隣のブラジルがポルトガル語なのは、ポルトガルの植民地だったからです。ただしアルゼンチンのスペイン語はカステジャーノと呼ばれ、本国とは発音や代名詞に違いがあります。
アルゼンチンという国名の由来は何ですか
ラテン語で銀を意味するアルヘントゥムです。スペイン人がラプラタ川 (銀の川) の上流に銀山があると信じたことに由来します。実際には銀は出ず、銀が採れたのはペルーとボリビアでした。
アルゼンチンはいつ独立しましたか
1816年7月9日です。きっかけは1810年5月の五月革命で、その6年後に正式に独立を宣言しました。7月9日は今日の独立記念日で、ブエノスアイレスの大通りの名前にもなっています。
アルゼンチンという国名の由来は何ですか
ラテン語で銀を意味するアルヘントゥム (Argentum) です。初期の探検家がラ・プラタ川 (銀の川) の上流に銀の山があると信じたことに由来します。実際にはアルゼンチンで銀はほとんど採れませんでした。
アルゼンチンとオランダの因縁とは何ですか
ワールドカップでの名勝負の歴史です。1978年大会は決勝でアルゼンチンがオランダを破って初優勝、2014年は準決勝でPK戦の末アルゼンチンが勝利、2022年も準々決勝で激闘のPK戦になりました。また、オランダのマキシマ王妃はブエノスアイレス出身のアルゼンチン人です。
アルゼンチンはなぜヨーロッパ系の人が多いのですか
1853年憲法が移民の受け入れを国の方針に掲げ、19世紀末から20世紀初頭にイタリアとスペインを中心に数百万人の移民を受け入れたためです。1914年には人口の約3割が外国生まれでした。
アルゼンチンはなぜ経済危機を繰り返すのですか
農産物輸出に依存した経済構造、政権交代のたびに大きく振れる経済政策、慢性的なインフレと通貨不安が重なった結果です。1989年のハイパーインフレ、2001年のデフォルトなどを経験しています。仕組みは当サイトのペソとブルーレートの記事で詳しく解説しています。
アルゼンチンの歴史を学ぶのにおすすめの場所はありますか
ブエノスアイレスなら五月広場とカビルド、レコレータ墓地、ESMA記憶の場博物館 (世界遺産) が三本柱です。当サイトのヒストリーマップに84の歴史の現場を地図でまとめています。