歴史と文化

アルゼンチン軍事政権と汚い戦争|ビデラ・失踪者・死のフライトと映画アルゼンチン1985

PRこの記事は広告リンクを含みます
目次
  1. クーデターへの道
  2. 汚い戦争: 何が行われたか
  3. 五月広場の母たち
  4. 崩壊と裁判: 映画アルゼンチン1985の世界
  5. 記憶の場所を訪ねる
  6. よくある質問

アルゼンチン軍事政権と汚い戦争

1976年3月24日、アルゼンチンで軍がクーデターを起こし、ビデラ将軍を長とする軍事政権が成立しました。以後1983年までの7年間、政権は「国家再編成プロセス」を名乗り、反対派とみなした市民を裁判なしで連行し、秘密収容所で拷問し、多くを殺害しました。この国家による組織的な弾圧が「汚い戦争」と呼ばれるものです。

失踪者は人権団体の推計で最大3万人。彼らは「デサパレシドス (失踪した人々)」と呼ばれます。逮捕の記録も、死の記録も残されなかったからです。この記事では、軍事政権の成立から崩壊、裁判、そして現在も続く記憶の闘いまでを解説します。

クーデターへの道

1970年代前半のアルゼンチンは、ペロンの復帰と死、左右のゲリラとテロ、年率数百%のインフレで混乱の極みにありました。1976年、軍はペロンの未亡人イサベル大統領を排除して権力を握ります。当初、秩序の回復を期待して政権を歓迎する空気さえありました。ここに至る流れは フアン・ペロンとペロニズムの記事 で解説しています。

しかし軍事政権が始めたのは、秩序の回復をはるかに超えるものでした。

汚い戦争: 何が行われたか

  • 連行: 深夜、覆面の部隊が自宅や職場から人を連れ去りました。対象はゲリラだけでなく、学生、労働組合員、ジャーナリスト、教師、そしてその友人にまで及びました
  • 秘密収容所: 全国に約500か所の秘密拘束施設が作られました。最大のものが首都の海軍工科学校 (ESMA) で、ここだけで約5,000人が拘束され、生還者はわずかでした
  • 死のフライト: 収容者に薬物を投与し、飛行機から生きたまま海へ投下する殺害方法です。証拠を残さないための手段でした。後年、実行者の告白と遺体の漂着によって裏付けられています
  • 赤ん坊の強奪: 収容中に出産した母親から赤ん坊が取り上げられ、軍関係者の家庭に実子として引き渡されました。約500人の子どもが親を知らないまま育ったと推計されています

五月広場の母たち

恐怖で社会が沈黙する中、最初に声を上げたのは失踪者の母親たちでした。1977年から、母親たちは毎週木曜日、大統領府前の五月広場で白いスカーフを巻いて行進を始めます。「五月広場の母たち」です。

そして祖母たちの団体「五月広場の祖母たち」は、奪われた孫を探し続けてきました。DNA鑑定によってこれまでに130人以上の「孫」が本当の出自を取り戻しています。40年以上たった今も、自分の出自を知らないまま暮らす人が数百人いると考えられており、捜索は現在も続いています。

崩壊と裁判: 映画アルゼンチン1985の世界

軍事政権は経済運営に失敗し、1982年の フォークランド紛争 の敗北で決定的に信を失って、1983年に民政移管しました。

民主化直後のアルゼンチンは、世界の歴史でも珍しいことをやります。新政権が真相究明委員会を設置し、報告書「ヌンカ・マス (二度と繰り返すな)」で約9,000件の失踪を文書化した上で、1985年、軍事政権の最高幹部9人を民間の法廷で裁いたのです。自国の独裁者を、革命ではなく裁判で裁いた早い例でした。ビデラには終身刑が言い渡されます。

この歴史的裁判を検察官の視点で描いたのが、映画「アルゼンチン1985」です。国際的に高く評価され、この時代への関心を世界的に呼び起こしました。史実の重さと法廷劇の面白さが両立した作品で、この記事のテーマへの最良の入口です。

その後の経過は単純ではありませんでした。軍の反乱を受けた免責法で訴追は一度止まり、2000年代に免責法が違憲とされて裁判が再開されます。ビデラは2013年に獄中で亡くなりました。人道に対する罪の裁判は、現在も続いています。

記憶の場所を訪ねる

ブエノスアイレスには、この時代を記憶するための場所が保存されています。

  • ESMA記憶の場博物館: 最大の秘密収容所だった海軍工科学校が、そのまま博物館として公開されています。2023年に世界遺産に登録されました
  • 記憶の公園: ラプラタ川沿いに失踪者の名前を刻んだ慰霊碑が並びます。川は死のフライトの現場でした
  • 五月広場: 母たちが行進した広場です。石畳には白いスカーフが描かれています
  • 3月24日: クーデターの日は「記憶と真実と正義の日」として祝日になっており、毎年大規模な行進が行われます

ブエノスアイレスの街歩きは 完全ガイド で、この時代の前後の通史は アルゼンチンの歴史 で読めます。

よくある質問

アルゼンチンの汚い戦争とは何ですか

1976年から1983年の軍事政権が、反対派とみなした市民を裁判なしで連行・拷問・殺害した国家による組織的弾圧のことです。失踪者は公式に文書化されたもので約9,000人、人権団体の推計では最大3万人にのぼります。

デサパレシドスとはどういう意味ですか

スペイン語で「失踪した人々」という意味です。軍事政権に連行された人々は逮捕記録も死亡記録も残されず文字通り消されたため、この言葉で呼ばれます。

死のフライトとは何ですか

軍事政権が行った殺害方法で、収容者に薬物を投与し、飛行機からラプラタ川や大西洋へ生きたまま投下したものです。実行したパイロットの告白などで裏付けられ、裁判で有罪判決も出ています。

ビデラとは誰ですか

1976年のクーデターを主導し軍事政権の初代大統領となった軍人です。1985年の軍政裁判で終身刑を受け、その後の免責と再訴追を経て、2013年に獄中で亡くなりました。

映画アルゼンチン1985はどんな映画ですか

民主化直後の1985年に軍事政権の最高幹部を民間の法廷で裁いた実際の裁判を、検察官チームの視点で描いた法廷劇です。この時代を知る入口として最適の一本です。

軍事政権はなぜ崩壊したのですか

経済運営の失敗に加え、1982年のフォークランド紛争の敗北で国民の支持を完全に失ったためです。1983年に選挙が行われ民政移管しました。

## 関連記事
← 記事一覧へ