【大器晩成】バンドネオン / ビクトル・ラバジェン
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ビクトル・ラバジェン(Victor Lavallen, 1935年12月18日生まれ)
アルゼンチン・タンゴのバンドネオン奏者です。
音楽キャリア
彼は長い間控えめで目立たない印象を持たれており、「多くのバンドネオン奏者の中のただの一人」
というイメージから抜け出すには、50年以上かかってしまいました。
長年の色々な人との演奏活動を得てからの独立、そして、大成功。
まさに、大器晩成のマエストロ。
現在、多くの録音にゲスト演奏で参加し、フェスティバルなどに招待され、タンゴオーケストラ学校 エミリオ・バルカルセの指揮者に就任。
ブエノスアイレス市に隣接するロマス・デ・サモラ市の専属楽団としても活躍しています。
幼少期
ロサリオ出身の彼は、音楽家の一家に生まれました。
6才〜7才の時に、音楽の勉強を始め、バンドネオンを1年だけ勉強し、その後ブエノスアイレスへ行くことになりました。
Gorriti と Sanches de Bustamante の角に家をかり、住んでいました。
ブエノスアイレス滞在では、映画やミュージカルをたくさん見に行き、当時流行っていたJazzをたくさん見聞きし、トランペットを習い始めるほど好きになりました!
しばらくして、その後また故郷ロサリオに戻り、再びバンドネオンの勉強を再開することになりました。
再びブエノスアイレスへ
彼は14才の時、再びブエノスアイレスに向けて出発しました。
バンドネオンをもっと勉強したかった彼は、プグリエーセやルジェーロなど、その当時活躍していた演奏家たちのコンサートに足を伸ばし、たくさんの演奏を聞きに行っていました。
しかし、そこで演奏していた彼らは、生徒を取っていなかったため、
直接弟子に迎え入れてもらえる事はできませんでした。
しかし粘りに粘って、当時フアン・ダリエンソ楽団で演奏していたエラディオ・ブランコを紹介してもらい、エラディオの元で勉強できる事になりました。
ファン・ダリエンソ(Juan D’Arienzo、1900年12月14日 – 1976年1月14日 / 75歳没)
初仕事
14才の時にコリエンテス通りとパラナ通りの交差点近くにあったピカディリーという地下のホールで、「ロス・セラノ」という小編成のグループに入る仕事をつかむことができたのです!
コリエンテス通りとパラナ通りを地図で見てみましょう!
晴れて入団した楽団、素晴らしい楽団だったのですが、当時のヴィクトルにとってはとても難易度が内容でした。
一週間そのグループに所属して演奏しましたが、その後、、、
グループのリーダーエドゥアルド・セラノが歩み寄り、
「君は将来とても有望だが、今はここで働くにはまだ早いね・・・」
エドゥアルド・セラノ
とすぐに解雇されてしまいます。
ビクトルはその事の思いでを「全ての休符を僕が音で埋め尽くしていたから、解雇されて当然・・笑」と笑ってコメントしています。
彼にとっては最初に入団した楽団であったのに、そこをクビになってしまい、もうバンドネオンを弾きたくも、練習したくもない、と心から思ったのでした。
そう思いながらも、バンドネオンの師匠と勉強を続け、「いつか次のチャンスがくるよ!」と励まされていたそんな時・・・
「バンドネオン奏者が足りないから来ないか?」と、一度首になった同じ楽団からお呼びがかかったのです!
勉強の成果と共にセラーノの元へ行くと、次は、見事スムーズに受け入れられ、その後セラーノのグループで数年間働くこととなりました。
その後、ビクトルの活動は良い方向へと動いていくのです。
挫折の後の活躍
バンドネオン奏者のミゲル・カロに認められ1951年から1954年まで、ブラジルツアーや録音を共に行いました。
以下の演奏家がリーダーを務めるグループやオーケストラに入っていました。(順不同)
- アンヘル・ドミンゲス
- ミゲル・ニヘンソン
- アティリオ・スタンポーネ(4年ほど、第一バンドネオン奏者として活躍)
- エンリケ・フランチーニ (ヴィクトルが20才の時)
- ホアキン・ド・レイジェス
- フアン・ホセ・パス(第一バンドネオン奏者として活躍)
プグリエーセ楽団に入団
その間も仕事を掛け持っていたビクトルでしたが、1958年にオスバルド・プグルリエーセ楽団への入団が、彼の人生でとても重要な出来事となりました。
入団のきっかけは、友人に「ねえ、プグリエーセの楽団で弾く機会とかないかなー?」って聞いたところ、なんとチャンスが回って来たらしいのです!
楽団に入りることができ、当時のスーパースターとも言えるバンドネオン隊の一員に加わる事ができたのです!!
- * 当時のバンドネオンメンバー *
- オスバルド・ルッジェーロ (Osvaldo Ruggiero)
- フリアン・プラサ (Julián Plaza)
- イスマエル・スピタルニク(Ismael Spitalnik)
- アルトゥーロ・ペノン (Arturo Penón)
所属した10年間、プグリエーセのスタイルとその精神に浸りきった時間を過ごし、楽団の演奏者、兼編曲者として活躍しました。
プグリーセ楽団の演奏曲のスタイルは、単調ではではなく、レパートリーに幅があり、聴衆を飽きさせなかったのですが、それは、プグリエーセが、自分の楽団のミュージシャンに、「それぞれ各自が、作曲・編曲を試みるように!!」と強く言っていたことにあるようです。
もちろん、ビクトルも編曲を担当し、書いていました。
その結果、プグリエーセ楽団の演奏は、楽団のリズム的特徴を失うことなく、なおかつ新しいアイディアがいつも誕生していたのです。
ビクトルが最初にプグリエーセ楽団に提供した編曲は、今では大ヒットのGallo Ciego (ガジョ・シエゴ 盲目の雄鶏)とEl Pañuelito (エル・パニュエリート)でした。
「ガジョ・シエゴこんなに有名になったのに、自分の曲じゃないから残念だ!編曲しただけだから、僕には何も儲けはないしね・・・・」
ビクトルが一言
「でも、そうやってプグリエーセがメンバーに編曲を課していたことは良かったけれど、でも、いくつか小さな論争もメンバーの中で生まれていたんだよ!」
ビクトルの言葉
それもそのはず、個性が強く、自己主張も強いアルゼンチン人。メンバー全員が意見を主張し、よく議論になったそうです。
そのうちに、人気の曲やアレンジを書けるメンバーがだいたい決まってきて、そうでないメンバーの曲は、弾くこともされず、お蔵入りし、怒りだけが残ったメンバーもいたそうです。
「もし、今、自分の楽団が仕事をたくさん持っていたとしたら、楽団のメンバーに作曲や編曲を並行してやってもらいたいなと思う、なぜならそのようにして楽団がまとまっていくから。」
ビクトルの言葉
プグリエーセ楽団から分裂
当時大人気だったプグリエーセ楽団。彼らの華やかな日本ツアーの最中、裏では、ある密会が進んでいたのです。
「仕事の仕方を変えないといけない。なぜなら、大編成での仕事はもう少なくなってきているからなぁ。。。」と、メンバーの一人が言い出した言葉がきっかけでした。
それから、次第に楽団外で6重奏を作って集まるようになり、しばらくして、その6重奏のメンバーであった者たちが、プグリエーセ楽団を退団しました。
それがセクステート・タンゴの誕生です。1968年、その時に、すでにプグリエーセは病気も患っていたいたそうです。
セクステート・タンゴのメンバーは
- バンドネオン:オスバルド・ルジェーロ、ビクトル・ラバジェン
- バイオリン;エミリオ・バルカルセ、オスカル・エレロ
- コントラバス : アルシデス・ロッシ
- ピアノ:フリアン・プラサ(彼は何年もバンドネオンを弾いていた結果、ピアニストの座に・・・)
- 歌手:ホルヘ・マシエル
ビクトルはセクステート・タンゴを引退すると決めるまで、19年もの間そのグループで演奏しました。
自身の活動へ
セクステート・タンゴをやめてから、すぐにビクトルは2つの団体で活動するようになした。
一つは、カルロス・ガルシアと、ラウル・ガレロが率いていたブエノス市立タンゴオーケストラ。そしてもう一つは、ロベルト・アルバレスと共に初期メンバーとしてコロール・タンゴを立ち上げました。
その当時の初期メンバーは
- バンドネオン:ロベルト・アルバレス、ビクトル・ラバジェン
- バイオリン:カルロス・ピクシオネ(トロイロ楽団の第一バイオリンだった)、フェルナンド・ロドリゲス(今でもコロールタンゴで活躍)
- コントラバス;アミルカル・トロサ
- ピアノ;ロベルト・シカレ
- キーボード:フアン・カルロス・スニーニ
その後、それらの楽団だけでなく、ミュージシャン、歌手、ダンサーを率い、エンターテイメントショータンゴで世界中をツアーして回るフォーエバー・タンゴに参加。
フォーエバータンゴは、規模は縮小されたけれども、今でも続いているショーです。
2007年にはビクトル自身のオーケストラを作り、「Amanecer ciudadano(アマネセール・シウダダノ)」というアルバムを制作。
収録曲は、オリジナル作品と、タンゴのクラシック的な作品を織り交ぜています。
その中の彼のオリジナル曲は以下の曲です。
- “Amanecer ciudadano”
- “Meridional”
- “A la sombra del fueye”
- “Mistongueando”
- “De norte a sur”
2010年に2枚目のCD “Buenosaireando”を収録。
その時のメンバーは
- 第2バンドネオン;アレハンドロ・ブルブルスキーニ
- ピアノ;パブロ・エスティガリビア
- コントラバス:シルビオ・アコスタ
- バイオリン:ワシントン・ウィリマン
「僕は、バンドネオンという楽器は、タンゴにはないといけない存在だと思っている。ブエノスアイレスの町の色、それが音に現れている。」
ビクトルの言葉より