Carlos Gardel 

カルロス・ガルデル(Carlos Gardel, 1890年12月11日? - 1935年6月24日 / 44歳没)

アルゼンチンの歌手、作曲家、俳優でアルゼンチンのエンタメ界の英雄的な地位を築いた人物です。

ガルデルの出生の記録は諸説あり、未だに確かなことは判明していません。

これは死後の遺産相続の関係で出生地を意図的に混乱させたという説もあります。

幼少時にフランスからアルゼンチンに移民した説、アルゼンチン出生説、ウルグアイのタクアレンボー出生説の三つが有力視されています。
ただし、これは事故死した死後の遺産処理に関わると言われています。
生年も1890年説と1887年説があり確かなことはわかっていません。

【1930年】英雄カルロス・ガルデルの短編映画

引用:Wikipedia

音楽のキャリア

ガルデルのプロ・デビューは1911年。

2年後の1913年には民謡歌手のホセ・ラサーノとデュオを結成し、このデュオはその後1925年まで活動を続けました。

カルロス・ガルデルの初めてのレコーディングはタイタニック号沈没と同じ時期の1912年4月だと伝えられています。
この時の報酬が180ペソだったと伝わっています。
もちろん年単位で物価やインフレが大きく変わるアルゼンチンですから、当時の価格を換算するのは容易ではありませんが、1933年のピアニストの編曲報酬が5ペソでその5ペソを無理矢理換算してみていますので、参考にしてみてください。

【1933年】10代のトロイロの演奏が聴ける『Los Tres Berretines 』

1917年に歌った『ミ・ノーチェ・トリステ』 Mi noche triste (わが悲しみの夜)によってタンゴ歌唱を確立したと言われています。

『ミ・ノーチェ・トリステ』はラテンアメリカで大ヒットを記録しました。

ガルデルは、ラテンアメリカでの名声を背負い、バルセロナ、パリ、ニューヨーク、ウルグアイ、チリ、ブラジル、プエルトリコ、ベネズエラ、コロンビアなど各地へ演奏旅行に出かけました。

アルゼンチンに戻ってもすぐに海外に出発する様からアルゼンチンでは『偉大なる渡り鳥』というニックネームで呼ばれていました。

映画俳優として

最初期の頃のアルゼンチン映画の制作にも関わっており、映画俳優、歌手としての地位を確立しました。

【1930年】英雄カルロス・ガルデルの短編映画

【1929年】アルゼンチン最古の映画『Mosaico Criollo』

友人のオラシオ・ペトロッシとパリでも映画「メロディア・デ・アラバル(Melodía de arrabal / 1933年)」と「エスペラム(Espérame / 1933年)」の制作を行なっています。

オラシオ・ペトロッシ(Horacio Pettorossi, 1896年10月21日 – 1960年12月25日 / 64歳没)

不運な事故

1935年、ニューヨークでの映画撮影を終えてアルゼンチンへ戻る際、映画の広報活動も兼ねて南米諸国を経由するルートを取ります。

コンサートも行ったコロンビアからの帰り、メデリン空港から飛び立とうとしたガルデル一行(伴奏ギタリストのアルフレッド・レ・ペラらも同行)の乗る飛行機が離陸に失敗。

失速しそのまま墜落。

ガルデルらは焼死しました。

コロンビア最後の巡業地だったカリ市へ向かう飛行機でした。
実際の事故現場 / 引用:Wikipedia
アメリカ人パイロットだったスタンレイ・ヘビーの操縦するSACO便でボゴタを出発。(副操縦士のサンペールが握っていたとする説もあり)
午後2時頃にガルデル一行を迎えるため、ラス・プラジャス飛行場に到着。
ガソリンを補給しカリ市ホルへ・イサック劇場でガルデルのコンサートと同時公演するための広報用映画フイルム(映画の題名は“人生の悪ふざけ”)の積み込み待ちのため乗客達全員は待合室で待機していました。
ガルデル達を出迎え、その後にサンペール氏に操縦を任せたF31機は、カリ市のバランケーラ飛行場に向けて、滑走路南端から北へ進みました。
離陸まで残り100メートルの時点、突然機後部を横すべりさせ右側の車輪の跡を明確に残しながら滑走路中心を右へ30度の方向へそれました。
そのまま上昇できず、滑走路で待機していたSCADTA便F-11“マニサレース号”と衝突炎上しました。
6月24日午後2時56~8分の間の出来事でした。
SCADTAの乗員7名全員と、SACO便の乗客(ガルデル含む)と乗務員の内8名は即死。
アルホンソ・アザフ(秘書)は翌日死亡。
アンヘル・リベロール(ギタリスト)は翌々日26日に入院した病院で死亡しました。 

事故の生存者

この事故の中で奇跡的に三人の生存者がいました。
ギタリストのホセ・マリア・アギラール(ウルグアイ出身)は安全ベルトを締めていなかった為に直ぐに機外への脱出に成功して助かります。

メデジンとボゴタの病院で火傷の治療回復のため長期間滞在治療しています。

アギラールは1951年にブエノスアイレスの中心街で交通事故(車道を横断中に車に跳ねられ、その傷の影響で肺炎を併発)のために60歳で亡くなりました。

二人目のホセ・プラハス(スペインのムルシア出身)はガルデルの英語教師兼マネージャー。

プラハス氏は事故から40年後にとあるラジオ番組で、『あの事故はもう時効になった。何も話たくないと』語っています

プラハス氏は1982年9月11日82歳で死亡。

三人目のグラン・フリンは米国人で1904年12月22日生の当時29歳。SACO航空の運航担当者で操縦士の脇に立っていた人物で、事故の際にすぐに飛行機から飛び降り、無傷で助かりました。

彼は事故後身を隠し、行方不明となりましたが、フロリダに住んでいたことがわかっており、1983年10月26日に79歳で亡くなりました。

今も愛され続けるアルゼンチンの英雄

ブエノス・アイレス地下鉄(Subte)・B線にはガルデルを記念した「カルロス・ガルデル」駅がコリエンテス通り(Av. Corrientes)に存在しています。

ホームの壁はガルデルを描いたイラストが飾られています。

さらに駅の近隣には「カルロス・ガルデル博物館(スペイン語版)(Museo Casa Carlos Gardel)」もあります。

Museo Casa Carlos Gardel(アルゼンチンのサイト)

また、出生説のあるウルグアイのタクアレンボ―市にも、ガルデルの顕彰碑が建てられており、郊外のバリェ・エデン村には、カルロス・ガルデル博物館があります。

*写真や資料準備中

代表曲リスト

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Kotaro Studio
Kotaro Studio『誰かのためにただここに在る』
金田式バランス電流伝送DC録音の遺伝子を受け継ぐ音響エンジニア・音楽プロデューサーの服部 洸太郎が運営する『旧・芸術工房Pinocoa』の『Kotaro Studio』が企画運営しています。
青いタンゴ礁では、『アルゼンチンタンゴのすべて』をテーマにタンゴの歴史やマエストロの紹介、またタンゴを作ってきたアルゼンチンの文化や歴史、さらにはインカ帝国時代まで遡って研究しています。
日本とは正反対にあるアルゼンチンですが、親日国としても知られており、近年日本人の移住者が増加している流れもあり、現地での生活情報なども随時発信中!
2021年より完全移住したタンゴピアニストの大長 志野が現地スタッフの日常カテゴリーにてお届けしております。
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