歴史と文化

インカ帝国とは|広がりと、滅亡までの経緯

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インカ帝国とは|広がりと、滅亡までの経緯
目次
  1. インカ帝国とは
  2. いつからいつまでか
  3. 文字を持たなかった国が、どう帝国を運営したか
  4. 暮らしと社会の仕組み
  5. マチュピチュとの関係
  6. アルゼンチンとインカ
  7. 実は存在する2つの鍵
  8. クロニカ
  9. 地方文書
  10. 貴重な日本語書籍
  11. 著書
  12. トリビア:人類最古の歴史書
  13. 古事記
  14. まとめ
  15. よくある質問
  16. 関連記事

インカ帝国とは

インカ帝国は、15世紀から16世紀にかけて南米のアンデス一帯を支配した国家です。現在のペルー、ボリビア、エクアドル、チリ北部、そしてアルゼンチン北西部にまたがり、南北におよそ4,000kmという細長い版図を持っていました。人口は最盛期で1,000万人を超えたとされます。

自分たちはこの国を「タワンティンスウユ」と呼びました。ケチュア語で「4つの地方」という意味で、首都クスコを中心に世界を4つに割る発想です。インカという語は本来、皇帝を指す言葉でした。

いつからいつまでか

始まりは13世紀ごろのクスコの小さな王国です。ただし帝国と呼べる規模になったのは1438年、パチャクテクが即位してからで、そこから100年足らずで最大版図に達しました。急拡大した国だったということです。

終わりは1533年です。スペインのフランシスコ・ピサロがわずか200人足らずの兵で皇帝アタワルパを捕らえ、処刑しました。そこから残存勢力の抵抗が1572年まで続きます。実質的な帝国の寿命は、100年に届いていません。

なぜ200人に負けたのか。理由は3つあります。直前まで続いていた皇位継承の内戦で国が割れていたこと、鉄と馬と火器を持たなかったこと、そしてスペイン人が持ち込んだ天然痘が先に広がり、人口が激減していたことです。詳しくは コンキスタドールとは にまとめました。

文字を持たなかった国が、どう帝国を運営したか

インカには文字がありませんでした。それでいて、4,000kmの版図を統治しています。

代わりに使われたのがキープです。色のついた紐に結び目を作り、位置と数で情報を記録しました。数量の記録が中心だったことは分かっていますが、物語や歴史まで記せたのかは決着していません。

もうひとつが道です。インカ道と呼ばれる道路網は総延長4万kmに達し、そこをチャスキという飛脚が中継で走りました。クスコからキトまで、およそ2,000kmを1週間ほどで伝えたとされます。馬も車輪も無しにこの速度です。

そして倉庫です。街道沿いにタンボと呼ばれる施設を置き、食糧と衣類を備蓄しました。凶作の年に配給し、軍隊が通れば補給する。文字ではなく、道と倉庫と紐で国を動かしていた国家でした。

暮らしと社会の仕組み

土地は共同体のもので、個人の所有ではありませんでした。アイユと呼ばれる血縁の集団が単位になり、割り当てられた土地を耕します。

税は物ではなく労働で納めました。ミタと呼ばれる制度で、決められた日数を国の仕事に出ます。道を作り、神殿を建て、畑を耕す。この労働力が、石を積み上げるあの建造物を可能にしました。

主食はジャガイモとトウモロコシです。標高差の大きいアンデスでは、高度ごとに違う作物を育て、それを交換して不足を補いました。ジャガイモを凍らせて乾かすチューニョという保存食は、いまも作られています。

マチュピチュとの関係

マチュピチュは、パチャクテクの離宮として15世紀に築かれたと考えられています。標高2,430m、クスコから北西へおよそ80km。都市ではなく、皇帝の私領であり宗教施設でもあった場所です。

スペイン人はここを見つけませんでした。だから破壊されずに残りました。1911年にハイラム・ビンガムが世界に紹介するまで、外の世界に知られていなかったのはそのためです。行き方と入場の実際は マチュピチュへの行き方 にまとめています。

アルゼンチンとインカ

アルゼンチンは、インカ帝国の南の端にあたります。フフイ州やサルタ州の北西部が版図に入っており、インカ道の遺構もこの地域を通っていました。

ケチュア語由来の地名や言葉が、いまも北西部に残っています。この地域の音楽であるフォルクローレも、アンデスの文化と地続きです (フォルクローレの歴史から楽器までの完全ガイド)。ブエノスアイレスから見るアルゼンチンとはまた別の顔が、この北西部にはあります。

未だ多くの謎に包まれているインカ帝国について。

当然日本の世界史で学べる範囲も限られていることもあり、フォルクローレを紐解くためにインカ帝国に触れないわけには行きません。

この記事を担当:こうたろう

1986年生まれ 音大卒業後日本、スウェーデン、ドイツにて音楽活動 その後金田式DC録音のスタジオに弟子入り 独立後芸術工房Pinocoaを結成しアルゼンチンタンゴ音楽を専門にプロデュース その後写真・映像スタジオで音響担当を経験し、写真を学ぶ 現在はヒーリングサウンド専門のピアニスト、音響エンジニア、フォトグラファーなどフリーランスのマルチメディアクリエーターとして活動中 当記事ではアルゼンチンタンゴを知るためのコアな知識を考察していきます 日本語で記された資料もわずかなため、現地取材をと・・・その前に、デスクで収集できる情報はしっかりと記事にまとめていきたいと思います。

実は存在する2つの鍵

インカ帝国の実態や暮らしの様子を紐解く鍵が全くないわけではありません。

紐解く鍵番外編としてシェアさせていただきたいアンデス社会史が専門の歴史学者で東京大学大学院総合文化研究科教授の網野徹哉先生の書籍によると、主に2つの資料から紐解けると書かれています。

インディオ社会史

クロニカ

一つ目の鍵がクロニカと呼ばれる資料。

16世紀〜17世紀のスペイン人の記録者がまとめたインカ帝国の資料です。

クロニカをまとめるスペイン人記録者のことをクロニスタと呼びます。

このクロニスタがインカの貴族や土着文化をまとめた資料は大きな鍵となります。

ここにはインカ帝国の様子、儀礼や儀式、国のシステムに関わることが記されています。

当然資料はスペインに残っていますし、コンキスタドール(征服者)側の視点で書かれていますので注意が必要です。

今日においてもまず第一に参看されるべき資料価値をもつが、そこから抽出されるインカ社会像はえてしてモノリシックなものになりがちである。 それをローカル社会の視点から修正し、地方支配の実像に迫ることを可能にするのがいわゆる『地方文書』と呼ばれる行政・司法文書であり、植民地時代に入っておこなわれた地方巡察や訴訟の記録などを通して、インカ帝国の地方レベルにおける支配の実質を把捉することが可能となる。

インディオ社会史:網野哲哉

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地方文書

網野先生もおっしゃられています、地方文書。

アルゼンチンの北部はインカ帝国の中央都市からも近かったこともあり、首都ブエノスアイレスとは食文化も音楽文化も大きく違ってきます。

私としても、北部のフォルクローレを知ることで20世紀の商業文化の波に流されていない古来の音楽を発見、または感じられるのではないか?という強い優位性を推測しているわけです。

これら現在ではアルゼンチンの北部となっている地域の地方文書なども存在しているとすれば、古来文化に触れる一つの鍵になるといえます。

貴重な日本語書籍

日本では網野哲哉先生がインカ帝国に関して第一人者であり、網野先生の書籍から学ぶことは多く、現地取材の前にすべての書籍に目を通しておく必要があります。

著書

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アンデス世界交渉と創造の力学

南北アメリカの歴史 (放送大学教材)

トリビア:人類最古の歴史書

ちなみに人類最古の歴史書と言われているのがヘロドトス(紀元前484年頃 - 紀元前425年(正確には不明))の著した、ペルシア戦争を中心とした歴史書で、ヘロドトスは歴史の父との異名も持っています。

これは、ハリカルナッソスの人ヘロドトスの調査・探求(Ἱστορίαι ヒストリエー)であって、人間の諸所の功業が時とともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バルバロイ)が示した偉大で驚嘆すべき事柄の数々が、とくに彼らがいかなる原因から戦い合う事になったのかが、やがて世の人に語られなくなるのを恐れて、書き述べたものである。

ヘロドトス、『歴史』巻1序文、桜井訳

古事記

日本の歴史書〜今の古事記が完成した経緯 日本にも歴史書は存在し、日本最古の歴史書といえば古事記が有名です。 現在原本は存在せず、写本が残っているのみ。 中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害。 この時に『天皇記』をはじめ、たくさんの日本の資料が失われたと言われています。 『国記』は難を逃れて天智天皇に献上されたとされていますが、現存していません。 壬申の乱後に天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けた『国記』に代わる国史の編纂を命じました。 当時28歳の稗田阿礼が任命され、『帝紀』『本辭』などの文献の誦習を開始。 その後、太安万侶が『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し『古事記』を完成させました。

まとめ

歴史は勝者によって作られるとはよく言いますが、アンデス文化、インカ帝国など含めてラテンアメリカの歴史は少なからず西洋の思惑が反映されていることと思います。

わずか数百年前のことではありますが、当時の生活や真実を知ることはかなり難しいでしょう。

しかし、日本から遠く離れた南米大陸の文化や歴史を想像することで私たち日本人が主観的に体感する人類史に新たな光が差し込むかもしれません。

よくある質問

インカ帝国とはどんな国ですか

15世紀から16世紀にかけてアンデス一帯を支配した国家です。現在のペルー、ボリビア、エクアドル、チリ北部、アルゼンチン北西部にまたがり、南北およそ4,000kmの版図を持ちました。自称はケチュア語で「4つの地方」を意味するタワンティンスウユです。

インカ帝国はなぜ滅亡したのですか

1533年、スペインのピサロが皇帝アタワルパを捕らえて処刑しました。少人数に敗れた理由は3つで、直前の皇位継承の内戦で国が割れていたこと、鉄と馬と火器を持たなかったこと、そして持ち込まれた天然痘で人口が激減していたことです。

インカ帝国は文字を持っていなかったのですか

持っていませんでした。代わりにキープという結び目のついた紐で記録し、総延長4万kmの道路網と飛脚で情報を運びました。数量の記録が中心だったことは分かっていますが、物語まで記せたかは決着していません。

インカ帝国とマチュピチュの関係は何ですか

マチュピチュは皇帝パチャクテクの離宮として15世紀に築かれたと考えられています。スペイン人に発見されなかったため破壊を免れ、1911年に世界へ紹介されるまで外の世界に知られていませんでした。

インカ帝国はアルゼンチンにも及んでいましたか

及んでいました。北西部のフフイ州やサルタ州が版図に入り、インカ道の遺構も残っています。ケチュア語由来の地名や言葉、そしてフォルクローレの音楽に、いまもその名残があります。

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