タンゴの巨匠たち

Horacio Pettorossi

Horacio Pettorossi

オラシオ・ペトロッシ(Horacio Pettorossi, 1896年10月21日 – 1960年12月25日 / 64歳没)

アルゼンチン・タンゴの作曲家、指揮者、ギタリストです。

アルゼンチンのビーチリゾート地としても有名なMar del Plataで生まれました。

1915年、19歳でプロとしての活動を開始し、1916年には歌手のイグナシオ・コルシーニのツアーに同行します。
1923年にはバルセロナをはじめとするヨーロッパツアーにも出かけています。

ドイツでの演奏

1925年10月にはドイツでの演奏を試みますが、ビザの関係で何人かのメンバーが強制帰国となりました。

その後当時タンゴが流行っていたフランスへ渡り、女性歌手たちと演奏旅行を続けることになります。

ちょうどこの頃フレセドもパリで活動していました。

オスバルド・フレセド(Osvaldo Fresedo, 1897年3月5日 – 1984年11月18日 / 87歳没)

その後も演奏ツアーを続け、ルーマニアやギリシャ、トルコをはじめとする東欧諸国を回りました。

ブエノスアイレスに戻るとしばらくはラジオや劇場で演奏活動を続けますが、再びギリシャ経由でパリを目指し、そこで歌手のカルロス・ガルデル(いずれの映画でも主演)らと共に映画「メロディア・デ・アラバル(Melodía de arrabal / 1933年)」と「エスペラム(Espérame / 1933年)」の制作に参加します。

ガルデルはのちに、この映画の曲は友人のペトロッシと即興で作ったと宣言しています。

カルロス・ガルデル(Carlos Gardel, 1890年12月11日? – 1935年6月24日 / 44歳没)

映画の制作を終え1933年からバルセロナ、パリとガルデルと共に演奏ツアーを続け、1933年の後半に二人はニューヨークへと渡米します。

この時、ニューヨークのミュージシャンたちとの折り合いがあわず、ペトロッシは疲れてブエノスアイレスに戻ったと言われています。

この時代のニューヨークは1929年の世界大恐慌でウォール街が瀕死の状態だったため、1930年代から少しでも希望を持ちたいと想いからジャズ文化が新しいステージを迎えていました。
ベニー・グッドマンやデューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラーなどまさにダンスホールビックバンドジャズが全盛期を迎えていた時代です。
「A列車で行こう」や「キャラバン」、「スウィングしなけりゃ意味がない」など第二世界大戦が終わる頃まで一大スウィング・ブームが巻き起こっていました。

アルゼンチンに戻ってからも、ガルデルからツアーのギグを受けますが、これを受け入れず、最終的に1960年12月25日に亡くなるまで、母親と一緒に生まれ故郷のマルデルプラタ市に定住していました。

作曲リスト

アクアフォルテ【Acquaforte】(Tango) (1932)

アグスティーナ【Angustia】(Tango)

アンシアス・デ・オルビード【Ansias de olvido】(Tango) (1942)

エル・コレンティーノ【El correntino】(Tango)

エスクラバス・ブランカス【Esclavas blancas】(Tango) (1931)

フェア【Fea】(Tango) (1925)

ガジェギータ【Galleguita】(Tango) (1925)

シュエベ【Llueve】(Vals)

ロ・アン・ビスト・コン・オトラ【Lo han visto con otra】(Tango) (1928)

ミ・プリメール・ゴール【Mi primer goal】(Tango) (1933)

ノーチェ・デ・アテナス【Noches de Atenas】(Vals)

オルビード【Olvido】(Tango)

オトーニョ【Otoño】( Tango)

セ・バ・ラ・ビーダ【Se va la vida】

シレンシオ【Silencio】(Tango) (1932)

トゥーシャ【Tuya】(Tango)

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