Horacio Salgan
オラシオ・サルガン(Horacio Salgán, 1916年6月15日 – 2016年8月19日 / 100歳没)
アルゼンチン・タンゴの作曲家、アレンジャー、ピアニストです。
ブエノスアイレスのアバスト(現在アバストショッピング)近くで生まれました。
14歳の頃にはピアノ奏者として働きはじめます。

音楽のキャリア
彼の音楽キャリアの最初の仕事は、無声短編映画に音楽をつけることでした。
18歳でベルグラーノ・ラジオ局に入社。
ラジオ局に世界中から集まるジャズやブラジル音楽、民俗音楽、などすべてのリズムが彼の作風の基礎を築いていきました。
20歳の時には、ロベルト・フィルポがオラシオのピアノを聞き、自身のオーケストラのピアノにオラシオを指名。
その後、アルベルト・シーマオーケストラに参加。
ちょうどその頃オランダのジャズミュージシャンが彼の曲「Choro en Fa」を聞き、非常に興味を持ちます。
その後、1942年の終わりにSimarレーベルに紹介し、そこで最初のアルバムを録音。
彼の最初のアルバム作品がYoutubeにありましたので紹介します!
Choro en fa sostenido(Youtubeへ移動)
オーケストラ結成へ
1944年にオラシオ・サルガン最初のオーケストラを組織します。
その時サルガンはこんなことを語っています。
オーケストラを結成したのには、私の作曲法にも関係しています。私はタンゴをある特定の方法で作曲し始めたのです。
Horacio Salgan(当サイト翻訳)
作曲家になるという考えからではなく、私の好きなようにタンゴを演奏するという考えです。 これと同じコンセプトをオーケストラでもやりたくなりました。 私は自分のやり方でタンゴを解釈・演奏するのが好きだったので、それを実現する唯一の方法は自分のグループを持つことでした。それがオーケストラ結成に繋がったのです。 オーケストラの指揮者になりたい人もいますが、私は、私のピアニストという天性に興味があり、そのほかに何も生み出すつもりはありませんでした。
フランスの音楽評論家がパリのルモンドで書いた記事では・・・
1944年から1957年までサルガンが率いるオーケストラは、タンゴの伝統的な形を拡張し、リズミカルな感覚を深めた。
当時のパリのルモンド記事より(当サイト翻訳)
黒人音楽のタッチに加え、新しいタイプの深いタンゴ的リズムを作り出し、それが彼の音楽に根付いている。
それとともに、バルトーク、ラヴェル、ジャズ、ブラジルの音楽も受け入れている。
不況が生んだキンテート・レアル
1950年代、政治的な影響や1929年に起こった世界恐慌の余波もあり、アルゼンチンでも地元の施設などは音楽への予算や、雇うミュージシャンの数を減らし人件費を抑え始めます。
それは様々なところに影響し、実際にこの頃、サルガングループの運転手はその仕事を失いました。
サルガンは経済的なダメージをなんとか修復するためにも、カフェやレストランでの日雇いBGMのバイトを始めます。
当時サルガンが日雇のBGM奏者として働いていたレストラン『Resto Bar Avellaneda Automovil Club』は今でも残っています。
当時一緒に日雇いのBGMのバイトをしていた、バイオリンのフランチーニとコントラバスのラファエル・フェロとの出会いがサルガンの音楽人生を大きく変えることになりました。
互いの共通の友人である記者のサンティアゴ・ランダホは彼らに一緒になって演奏してみないか?
と提案します。
彼らは突然ではありましたが試しに演奏してみることにしました。
すると聴衆は彼らアンサンブルに驚き、是非継続するようにとの声が大きくなります。
しかし、彼らには大きな問題が残っていたのです。
あと一つの楽器が足りない・・・
彼らはバンドネオン奏者を探すことになります。
バンドネオン奏者のペドロ・ラウレンスに白羽の矢が立ちます。
彼は、喫茶店「リッチモンド」の常連客でした。
そこで4人はラウレンスをリッチモンドのコーヒーに招待し、そこでメンバーとして加わることを提案、ラウレンスはこれを快諾しました。
このようにして誕生したキンテート・レアルは、1960年代初頭にラジオ・エル・ムンドでアニバル・トロイロの後援を受けてデビューします。
アニバル・トロイロ(Aníbal Troilo, 1914年7月11日 – 1975年5月18日60歳没)
翌年、初代コントラバスのラファエル・フェロがキチョ・ディアスに代わり、継続的に日本とヨーロッパへツアーを行います。
後に、日本のレーベルの要請により、五重奏をヌエボ・キンテート・レアルとして再結成。
これは、サルガン、デ・リオ、レオポルド・フェデリコ(後にネストルマルコーニに交代)、アントニオ・アグリ、オマール・ムルタグで構成されていました。
晩年
オラシオ・サルガンは生涯で400曲以上の作曲もしくは編曲を手がけました。
ピアノ演奏の動画も数多く残されており、2006年のドキュメンタリー映画『アルゼンチンタンゴ伝説のマエストロたち』にて、レオポルド・フェデリコやマリアーノ・モーレスらと共に、登場しています。
彼の日常的な性格は、真心があり、気取らない性格です。
彼は自然に自発的であり、巧妙なユーモアのセンスを巧みに駆使して、友人や大衆の共感を得ています。
控え目で適度なジョークを言う。
彼は親切で敬意を払って、他人との関係を適切に保つ。
そんなオラシオ・サルガンは今もアルゼンチンタンゴ界で愛され続けています。
代表作品リスト
ア・フエゴ・レント【A fuego lento】( Tango)
ア・ウナ・ムヘール【A una mujer】( Vals)
アケジョス・タンゴス・カンペーロス【Aquellos tangos camperos】(Tango)
コルターダ・デ・サン・イグナシオ【Cortada de San Ignacio】(Milonga)
ドン・アグスティン・バルディ【Don Agustín Bardi】(Tango)
エル・ビエヒート・メヒジョン【El viejito Mejillón】(Tango)
エントレ・タンゴ・イ・タンゴ・タンゴ【Entre tango y tango tango】(Tango)
グリジート【Grillito】(Tango)
ラ・ジャモ・シルバンド【La llamó silbando】(Tango)
モティーボ・デ・バルス【Motivo de vals】(Vals)
セ・フエ【Se fue】(Vals) (1943)
タル・ベス・ノー・テンガ・フィン【Tal vez no tenga fin】(Tango)

- 『誰かのためにただここに在る』
-
金田式バランス電流伝送DC録音の遺伝子を受け継ぐ音響エンジニア・音楽プロデューサーの服部 洸太郎が運営する『旧・芸術工房Pinocoa』の『Kotaro Studio』が企画運営しています。
青いタンゴ礁では、『アルゼンチンタンゴのすべて』をテーマにタンゴの歴史やマエストロの紹介、またタンゴを作ってきたアルゼンチンの文化や歴史、さらにはインカ帝国時代まで遡って研究しています。
日本とは正反対にあるアルゼンチンですが、親日国としても知られており、近年日本人の移住者が増加している流れもあり、現地での生活情報なども随時発信中!
2021年より完全移住したタンゴピアニストの大長 志野が現地スタッフの日常カテゴリーにてお届けしております。
アルゼンチンタンゴが好きな方、タンゴ音楽に興味のある方、また将来中期〜長期に渡って移住してみたい方は是非是非ブックマークよろしくお願いします。
Tourism2023.01.26【それ、危ない】空港などで避けるべき4つの行動
Latin America history2023.01.23ピサロやコルテスがスケープゴートな可能性を考える〜歴史は勝者によって作られる
Diary2023.01.23【南米文化】ヤーガン語の最後のネイティブ話者が死去〜世界に存在する消滅危機言語
Life2022.02.11【2022年版】アルゼンチンの物価と暮らしのポイント