【クロニカ】侵略と征服の記録〜クロニスタとコンキスタドール

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クロニカとは、スペインの南米侵略の様子を記録した歴史資料の一種。

それらをまとめた記録者のことをクロニスタと呼びます。

クロニカはインカ帝国の歴史や様子を紐解く重要な鍵の一つとして位置付けられており、これらを理解するためには必要な資料となっています。

この記事を担当:こうたろう

1986年生まれ
音大卒業後日本、スウェーデン、ドイツにて音楽活動
その後金田式DC録音のスタジオに弟子入り
独立後芸術工房Pinocoaを結成しアルゼンチンタンゴ音楽を専門にプロデュース
その後写真・映像スタジオで音響担当を経験し、写真を学ぶ
現在はヒーリングサウンド専門のピアニスト、音響エンジニア、フォトグラファーなどフリーランスのマルチメディアクリエーターとして活動中
当記事ではアルゼンチンタンゴを知るためのコアな知識を考察していきます

一方でコンキスタドールというのは征服者と直訳され、この時代に新大陸を征服するために侵攻した人物のことを指します。

コンキスタドールも伝記や著書を残していることもあり、クロニスタと同じ働きをしていた存在もいますが、通常はコンキスタドールは戦闘員であり、クロニスタは文化人であると区別されています。

これらの征服者の活動はスペイン王の承認が必要ではありましたが、資金援助などの支援はなく、軍自体はほとんどが私兵で構成されており、スペイン正規軍が入る部隊はほとんどなかったということです。

資金や戦力の支援がないにも関わらず、征服後、スペイン王室は戦利品の5分の1(キント・レアル)を要求し始めました。
さらに征服地に官吏を派遣し、コンキスタドールの権利の剥奪を始めたため、ペルーにおけるピサロのように、反乱を起こす者も多かったそうです。

本日は南米史を知る上で非常に重要なクロニスタと、歴史を大きく動かしたコンキスタドールをまとめていきます。
これらの人物は南米史を知る上では必須の人物をなっており、追ってここをベースに派生した記事や情報をまとめていきたいと思います。

奴隷解放の光:バルトロメ・デ・ラス・カサス

Bartolomé de las Casas, 1484年8月24日 – 1566年7月17日 / 引用:Wikipedia

ラス・カサスはスペイン、アンダルシア地方のセビリア生まれ。

ラス・カサスの一族はコンベルソ(改宗ユダヤ人)であるという説もありますが確証はありません。

1493年に「新大陸」に到達してスペインに戻ってきたコロンブス(クリストーバル・コロン)のセビリア到着を目撃し強い影響を受けました。

その後、父ペドロはラス・カサスの兄弟とともにコロンの第二次航海に参加し、「新大陸」へと渡りました。

1502年、18歳の頃にはラス・カサス自身も新大陸へとに渡ることになりました。

ラス・カサス到着当時はコロン率いるスペイン軍による現地での略奪と虐殺が始まっており、アラワク族やルカヤン族、タイノ族などの先住民とスペイン人入植者と戦闘中でした。

ラス・カサスは1504年3月頃からイグエイ(Higüey)地方の先住民鎮圧軍に加わり、コンセプシオン・デ・ラ・ベガの近くで先住民を奴隷として使いながら農場を経営していました。

ブルゴス法への出来事

1511年12月にラス・カサスののちの運命を大きく変えた出来事が起こりました。

サント・ドミンゴで生活していたドミニコ会員アントニオ・デ・モンテシーノスが、スペイン人の先住民に対する不当な扱いを初めて公に非難しました。

この非難運動は拡大していき、スペイン王室も動かす事態となり、当時の王フェルナンド2世のもとブルゴス会議が開かれ、先住民に対する対応が記されたブルゴス法を制定しました。

奴隷の解放
ブルゴス法の流れもあり、1514年8月15日にラス・カサスが当時所有していた先住民奴隷を解放。
自らのエンコミエンダ(略奪した植民地)を放棄。
その後エンコミエンダ制(植民地支配制度)における矛盾点を厳しく糾弾する立場へと転身しました。

ラス・カサスは奴隷解放からのエンコミエンダ制を批判する立場を取って以降、スペインの植民地政策における残虐性や、スペイン全体の非人間性を攻撃するような批判が重なり「黒い伝説」と呼ばれるようになりました。
そのため、スペイン国内ではラス・カサスは『国の誇りを失墜させた男であり、祖国への裏切り者』とみなされるようになっています。
20世紀後半では、中南米を中心に盛んになった新潮流、解放の神学においてラス・カサスは再び思想的先駆者、解放者として高く評価されています。

著書

インディアスの破壊についての簡潔な報告

インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述

裁かれるコロンブス (アンソロジー新世界の挑戦 1)

大航海時代叢書〈第II期 25〉インディアス史

インディオは人間か

アステカ帝国を征服した男:エルナン・コルテス

Hernán Cortés de Monroy y Pizarro, 1485年-1547年12月2日 / 引用:Wikipedia

スペインのコンキスタドールでメキシコ高原にあったアステカ帝国を征服しました。

スペインの紙幣
1992年から2002年のユーロ導入までスペインで発行されていた最後の1,000ペセタ紙幣の表面の肖像として有名。

コルテスは当初法律家を目指しており、サラマンカ大学に通ったが法律家の夢は叶いませんでした。

遠戚:ニコラス・デ・オバンドと共に、新大陸に渡る計画があったが、コルテスの大怪我により実現しませんでした。

新大陸へ向けて

当時スペイン南部のカディス、セビリア、パロスなどで、新大陸から帰還した者たちの話を聞き、新大陸への情報を集めていました。

1504年アロンソ・キンテーロ (Alonso Quintero) が率いる船にて、イスパニョーラ島に渡り植民者となりました。

当時キンテーロが、第一発見者になるために取ったライバルを騙したり欺いたりする手法は、コルテスが新大陸でその後取った手法に影響を与えたと言われています。

コルテスは1506年頃にはイスパニョーラ島とキューバの遠征へと参加、そこで不動産や先住民奴隷を獲得しています。

アステカ征服へ

1519年にコルテスはキューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反して500人の兵と馬16頭、帆船11隻を率いてメキシコ湾岸沿いから3月12日にタバスコ川に到着し原住民との戦いに勝利しました。

ユカタン半島では8年前からこの地に漂着していたコンキスタドーレスであるヘロニモ・デ・アギラールと、パイナラ族の長の娘マリンチェと出会います。

二人を通訳兼案内人として征服に向けて進みます。

マリンチェ
マリンチェは1502年頃 – 1527年(没年を1529年とする資料もある)、パイナラの首長の娘として生まれたがスペインの征服期にスペイン側についた女性。
ナワトル語に加えて住んでいた土地であるマヤ語の両方に通じていたと言われており、タバスコの首長Tabscoobよりエルナン・コルテスに献上された後、奴隷としてキリスト教の洗礼を受けスペイン人達と生活を共にする中でスペイン語も習得。
メキシコがスペインから独立した際、アステカ最後の王であるクアウテモックが英雄として語られたのと対照的に、マリンチェは裏切り者の代名詞として語られています。

征服後

コルテスはアステカを征服し、部下達に土地を分け与え、自らも広大な土地を手に入れました。

コルテスの征服を機に、旧アステカでもエンコミエンダ制(植民地政策)が正式に成立。

コルテスは1523年からホンジェラスやニカラグアへも遠征隊を派遣し、入植者たちは、広大な土地を与えられ、労働力として先住民たちを金山や銀山で強制労働させていました。

1524年、ホンジュラスのスペイン併合を宣言。

1525年2月26日、反乱を企てたとの疑いで、クアウテモックを絞首刑しました。

この瞬間アステカは滅亡。

メキシコ全土がスペインに併合されました。

1527年からはスペインに一時帰国しますが、3年後の1530年にはメキシコに戻り、大エンコメンデロとして現地で莫大な富を築きました。

1540年にスペインに帰国後、1547年12月2日、セビーリャ近くのカスティリェハ・デ・ラ・クエスタにて赤痢により62歳で死亡。

遺体は遺言により、メキシコシティと改称したテノチティトランに自身が建てたへスース病院内の礼拝堂に埋葬されました。

コルテスの人物像

コルテスはアステカ帝国を征服、支配し、旧アステカ文明を完膚なきまでに粉砕。

その文化のすべてに理解を示さなかったと言われています。

また、コルテスは敬虔なカトリック信徒だったので、当時のインディオ社会が持っていた人身供犠などの文化を「野蛮」であると感じ、インディオの習慣そのものを廃止し、キリスト教化を急いだとの意見もあります。

コルテスの軍は征服の過程で現地の黄金を略奪、インディオの大量虐殺を行い、現地のインディオ女性たちを強姦し、そのインディオ女性たちを妾(めかけ)として所有していました。

コルテスにとってのマリンチェも、コルテスの妾の一人として寵愛。

マリンチェとの間に生まれた子供にマルティンと名付けて、現在もその子孫がメキシコに住んでいると伝えられています。

コルテスの回想録ではマリンチェのことを通訳者として記しているだけであり、マリンチェは後にコルテスの部下でイダルゴのJuan Jaramilloと結婚させられています。
実際にコルテス家の跡を継いだのが同姓同名の弟マルティン・コルテスであり、彼はコルテスの後妻の子で、マリンチェの産んだマルティンではありません。

著書

コルテス報告書簡

コルテス征略誌 黄金の帝王モンテスマの最期 モーリス・コリス 金森誠也訳、大陸書房 1976年。講談社学術文庫 2003年

コルテス メキシコ征服者の栄光と挫折 寺田和夫編訳 世界を創った人びと 平凡社 1978年8月

劇画 冒険者たちの世界史 ラルース版 6 アズテクの黄金 コルテス デ・ソト ミシェル・ド・フランス編集 榊原晃三訳 タイムライフブックス 1983年8月

メキシコ征服 アステカ帝国と征服者エルナン・コルテス・真実と虚構 山瀬暢士、バーチャルクラスター/ブッキング 2003年4月)

正統派クロニスタ:ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ

Bernal Díaz del Castillo, 1496年 – 1584年 / 引用:Wikipedia

『メキシコ征服記 (Historia verdadera de la conquista de la Nueva España)』の著者として有名で、先述のコンキスタドール(征服者)とは違い、クロニスタとしての立ち位置が強い人物です。

スペインのメディナ・デル・カンポ (Medina del Campo) 生まれ。

父親は町のレヒドール(参事)で、当時としても絶大な経済力を持っていたため、ベルナル・ディアスは幼い頃から読み書きの能力を身につけるための十分な教育を受けることができたとされています。

新大陸への渡航

1514年にスペインから新世界のキューバに渡ります。

その頃のキューバは、当時スペイン人が持ち込んだ疫病に苦しめられており、強制労働の過労死などでキューバ島のインディオ(先住民)が激減していました。

1517年にカリブ海の島々に代わりの労働力を確保するため、遠征隊を送ることになります。

ディアスはフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ率いる奴隷確保のための遠征隊に参加していました。

この遠征はユカタン半島の発見など一定の成果を挙げましたが、途中マヤ人の襲撃を受けたり、道中での飢えに苦しめられるなどし、キューバに帰還するまで隊全体が疲弊していました。

ディアスはキューバへの帰還中にコルテス率いる新しい遠征隊に参加しています。

著書

メキシコ征服紀で有名です。

ディアスはメキシコ征服記の出版を見ることなく1584年に没しています。

メキシコ征服記の原稿は1632年にマドリード図書館で発見されて出版されました。

メキシコ征服記はディアス自身が遠征隊として参加した119回もの戦闘や、ディアス本人や軍隊仲間が目撃したこと、実際に経験したことをありのままに伝えている点が特徴的です。

アステカの崩壊およびスペインによるメキシコの征服に関する最も重要な一次資料の1つとなっています。

インカ帝国を征服した男:フランシスコ・ピサロ

Francisco Pizarro、1470年頃 – 1541年6月26日 / 引用:Wikipedia

カスティーリャ王国エストレマドゥーラのトルヒージョの生まれ。

父はゴンサロ・ピサロ。

母はフランシスカ・モラレス。

父のゴンサロ・ピサロは軍人で小貴族、母は召使いであったといわれています。

教育もされず、文字も知らないままで育ったと伝えられています。

1498年から1502年にかけてイタリア戦争に参加。

1502年にニコラス・デ・オバンド総督の着任航海でエスパニョーラ島へ渡る。

1513年にバルボアのパナマ遠征に同行し、太平洋に到達しました。

ペルラス諸島滞在中に黄金郷ペルーの情報に触れます。

1524年と1526年の二度にわたり探検家ディエゴ・デ・アルマグロと南アメリカを探検。

苦労の末、トゥンベスまで進みます。

ペルー侵攻の準備

1528年にスペインに戻り、カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からペルー支配の許可を取りました。

征服の権利や搾取の特権等を得て、ヌエバ・カスティーリャの総督に任命され、4人の兄弟と募集した兵士を引き連れて1530年にパナマに戻り侵攻のための準備を整えます。

1531年に約180人の兵士、37頭の馬を率いてパナマを出港。

ペルーへの侵入を開始しました。

1532年にカハマルカでアタワルパを生け捕りにします。

アタワルパ
ケチュア語では幸福な鶏の意味。
インカ帝国最後の皇帝(サパ・インカ)(1502年頃-1533年7月26日、在位:1532年-1533年)
父は11代インカ皇帝ワイナ・カパック。
マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位したが、スペイン人のコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロらによってインカ帝国は攻め滅ぼされ、その後処刑されました。

アタワルパは自身を「太陽の子」と信じ、いつか復活して報復すると誓いつつ死んで行ったと伝えられています。

ピサロはアタワルパの身代金としてインカ帝国から莫大な貴金属を受け取りますが、アタワルパが存在する限り先住民が彼と共に反乱を起こす可能性があると判断し、約束を反故にし1533年7月26日にアタワルパを処刑。

11月にはインカ帝国の首都であるクスコに無血入城。

インカ帝国を滅ぼしクスコを制圧。

しかしその支配地の分配、特にクスコの領有権をめぐってディエゴ・デ・アルマグロ(ピサロと行動を共にしていたコンキスタドールの一人。)と対立。

1537年からは内戦が始まりました。

ピサロは1538年4月にサリナスの戦いでアルマグロを破り処刑。

戦いには勝利したピサロでしたが、スペイン本国の支持を失い、1536年にはカルロス1世にアタワルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告されました。

結局スペインからの死刑は執行されないまま、1541年6月26日にアルマグロの遺児一派にリマで暗殺されました。

埋葬されなかったピサロの遺体はミイラとして現在も残されています。

インカ帝国征服の重要人物:ディエゴ・デ・アルマグロ

Diego de Almagro、1479年 – 1538年7月8日 / 引用:Wikipedia

別名「エル・アデランタード(El Adelantado、アデランタードとは征服地の統治権を持つ司令官という意味)」または「エル・ビエホ(El Viejo、老人)」とも呼ばれました。

当初はフランシスコ・ピサロの遠征隊に参加していた仲間でしたが、後にライバル関係となりインカ帝国征服後に内戦で争いました。

ヨーロッパ人としては最初にチリを発見したことでも知られています。

ディエゴ・デ・アルマグロは、現在のシウダ・レアル県アルマグロ司法管轄区アルマグロ村でホアン・デ・モンテネグロとエルビラ・グティエレスとの間に生まれました。

アルマグロが4歳のとき、ヘルナン・グティエレスという伯父の後見に置かれたが虐待を受け、15歳のときに家を出ました。

新しい夫と同居していた母親の元に着いたアルマグロ少年は、虐待の事実と今後の計画を母に伝え、パンと金銭を求めたと伝えられています。

母は、彼の求めに応えて「私の愛する息子よ、私に構わず旅立ちなさい。そして神よ、息子の冒険を助けさせたまえ」と言ったと伝えられています。

同じ頃アルマグロは喧嘩により当時の仕事の同僚に重傷を負わせた逃亡します。

アルマグロは投獄を避けるためにセビリャから逃れ、アンダルシア州の放浪者となりました。

この頃、新大陸発見のニュースを知り、パナマ総督ペドロ・アリアス・ダビラの艦隊に応募。

パナマに到着しそこでフランシスコ・ピサロと出会い友情を培うことになりました。

インカ帝国征服へピサロとの協定

1524年に南米進出に向けアルマグロ、ピサロ、ルケの三者間で協定が締結されました。

アルマグロは、1532年、カハマルカの戦いで皇帝アタワルパのインカ軍に勝利。

ペルーがスペイン人の手に落ちた後しばらくは、ピサロとアルマグロは共に、彼らの統治権を強化するために新都市の建設で一緒に働きました。

インカ兵は、都市を燃やし、スペイン人に発見できないような場所に金を埋めました。

ピサロとアルマグロ

皇帝アタワルパの財宝を分配し、ピサロとアルマグロは、クスコに向かい1533年に占領。

しかしアルマグロのピサロに対する友情は、1526年には衰えつつあったと言われています。

アルマグロは、ペルー征服によって十分な富を獲得し、クスコで豪奢な生活を送っていました。

しかし彼にとって、南方で更なる陸地を征服するという見通しは非常に魅力的であり、アルマグロはペルー南方への新しい探検のため、多くの時間と金を費やし500人の兵による隊を設立。

ピサロとアルマグロの土地分割
アルマグロは王室と交渉しました。
交渉の末に王室は1534年までに、2本の平行線により新植民地を分割することを決定しました。
「ヌエバ・カスティーリャ(南緯1度から14度まで、ペルーのピスコ近辺)及び「ヌエバ・トレド」(南緯14度から25度まで、チリのタルタル近辺)、前者をピサロに、後者をアルマグロに割り当て、それぞれ総督としました。

さらなる南へ

スペイン人の金への異常な執着を感じた当時のペルーの現地人はコンキスタドールたちに『チリには黄金が豊富であり如何なる努力も惜しむべきではない』と語っていたとされ、ペルー現地人の話を聞いたアルマグロは急ぎ遠征の準備を整えました。

リマとクスコでも兵士を募集し、500人の兵士、100人のアフリカ人奴隷、約1万人の現地人奴隷で構成され、これら全ての費用は、合計150万カスティーリャ・ペソを費やしたと見積もる説があります。

アルマグロは、旧インカ帝国の高級官僚に依頼し、安全なルートを手配してもらいます。

安全なルートを手配した理由として、インカ側の思惑が、スペイン人コンキスタドールたちの大軍をペルーから移動させる計画を立てていたことにあります。

ピサロが新首都のリマに行へ。

アルマグロがチリ方面の探検へ。

その間にペルーにてインカ軍を再構成し、武装反逆の準備を整えてをクスコを奪回することができると考えていたわけです。

アンデス山脈の横断

遠征は非常に困難な道のりでした。

中でも最も困難な局面がアンデス山脈の横断で、標高約4,000mの寒さ、飢餓、疲労は、スペイン人と現地人、そして特にそのような厳しい気候に慣れていなかった奴隷を大量に失う結果となりました。

生存者の後日談では『仲間が、止まって、休息し、ただ凍死し、他のものはブーツを脱ぐとき自らの爪先がブーツに張り付けられる様を恐怖と共に見る』と伝えられています。

準備不足であることを痛感したアルマグロは、少数の隊に、先に進んで原住民に助けを求めるように命令します。

幸運にもこの一隊は、コピアポの谷を発見。

そこは、インカ皇帝の身代金を盗んだ罪でピサロによりペルーから追放されたスペイン人、ゴンサロ・カルボ・バリエントスが現地人と既に友好関係を確立していた場所でした。

アルマグロはスペイン王の名を元にコピアポ川の渓谷で、領地を手に入れました。

当初現地人に暖かく迎えられたアルマグロ一行でしたが、通訳のフェリピロ(先住民族出身)の陰謀により、危うくアルマグロの努力は妨害されるところでした。

通訳のフェリピロは以前ピサロが皇帝アタワルパを処刑するのを手伝った人物です。

アルマグロは1536年9月にペルーへの帰還計画を開始。

結局アルマグロは現在のチリ領域内には都市を建設できずでした。

水不足と食糧不足に苦しみながらアタカマ砂漠を横断した後、1537年、アルマグロは無事ペルーのクスコに到着。

ペルーに苦渋の帰還をしたアルマグロでしたが、クスコではアルマグロが到着する前年に、皇帝マンコ・インカ・ユパンキが王都を取り戻し、スペインの影響力を弱めていた時期でした。

皇帝の力を借り、兵を集めることになったアルマグロでしたが、ピサロ派と対立。

この間アルマグロは病に伏し、ピサロと彼の兄弟は1538年4月にクスコ郊外のラス・サリナスの戦いでアルマグロを破ります。

アルマグロは、エルナンドによって辱しめられ、スペイン王に対する上告の要求を無視されました。

この時アルマグロは命乞いをするものの、エルナンドは以下のように応じたと伝えられています。

「お前は著名な紳士だ。哀れなまねはするな。俺たちのような男がそれほど死を怖れるとは気になってしょうがない。我々の死には救いがないと認めるのだな。」

エルナンド

1538年7月8日、アルマグロは死刑を宣告され、監禁中に斬首されました。

彼の死体は、敗北者としてクスコの大広場にさらされ、忠実な使用人であったマルガリータが、クスコのラ・マーセッド教会の下に彼を埋葬しました。